スマホの方はこちらからご覧ください。
来年の話をすると鬼が笑う時期ではありますが、市連退の事務局を担当している清交会では、すでに来年度の『講演会』『教育講演会』の準備を始めています。
このたび、『今すぐ逃げて! 人ごとではない自然災害』の著者である金藤純子氏と打ち合わせを行いました。
学校が避難所となる現実を熟知している私たち元校長は、災害時には一人の地域住民として避難や避難所運営に関わる立場でもあります。講師のお話には、ただうなずくばかりでした。
東日本大震災を経験した私たちの記憶が一気によみがえり、保護者が帰宅できず、児童・生徒の引き渡しが深夜まで続いたこと、午前2時過ぎになってようやく対応が落ち着いた例もあったことなど、当時の緊張感が鮮明に思い起こされました。
こうした経験は、現在進められている『働き方改革』とどのように交わっていくのでしょうか。
西日本豪雨を体験した講師からは、『知っていたら』『学校で地域の災害の歴史を学んでいたら』という切実でリアルな思いが語られます。多くの資料が語る“真実の詳細”は、ぜひ、10月1日(木)開港記念会館でお確かめください。
2025年最後の清交会主催事業「バス見学会」が無事終了しました。当日は真冬の寒さが日本列島を覆い、横浜の気温は5℃でしたが、猿島では風もなく、寒さを忘れて歴史散策を楽しむことができました。
軍港巡りでは、空母、イージス艦、潜水艦、護衛艦など、これまで名前として知っていた艦船が、静かに、しかし圧倒的な存在感をもって目の前に現れました。その迫力と高度な性能に思わず息をのみ、同時に艦上から手を振って応えてくれる乗組員の姿に、思いがけない温かさと親しみを感じるひとときとなりました。
以下、参加者の声をご紹介します。
・バス旅行には、日程が合わなくやっと参加できました。時間的にも余裕かあり、猿島や横須賀港巡りを楽しく味わえました。皆様ありがとうございました。
・昨日のような風も無く、無事帰途につけました。下見・企画 ありがとうございました。楽しい一日でした。
・とても寒かったのですが、普段感じらない空間と景色に新鮮な心地良さを味わいました。企画を担当された幹事の皆さま、参加された奇特?な皆さま、お世話になりました。空母ジョージ・ワシントンを生で見られたことは穢土の土産になりました。
・とても中身の濃い時間で、何度も全員で大笑いしました。紙一重の違いを共有する中で、互いの距離がぐっと縮まったと感じています。
・皆さんと楽しい時間を過ごせました。人数少ないのは残念でしたが、その分濃密⁈な体験ができたと思います。
本日、事務局会を開催しました。
本会では、二か月に一度の役員会を基本とし、その間の月に事務局会を行っています。今回は、1月に予定されている役員会に向けた資料の確認が主な内容でした。
毎年1月の役員会では、翌年度の総会をはじめとする年間計画が示されるため、扱う資料も多く、特に重要な会議となります。その準備はすでに始まっており、関係者が協力しながら進めています。
会議を終えて外に出ると、冷たい風が吹き、自然と足早に駅へ向かいました。
さて、明日は今年最後の会員参加事業となる「バス見学会」を実施します。
参加予定者の変更や、各種費用の値上げなど、考えさせられる点もありますが、コロナ禍を経て再開できた行事です。無事に開催できることに、あらためて感謝したいと思います。
会員の神谷敏明さんの活動がタウンニュースに掲載されました。多くの会員が退職後も横浜市の「教育活動」への奉仕を実現されています。ご紹介させていただきました。(12月11日 タウンニュース港北版)
県央地区の集会が「中華料理 百菜」で開催されました。参加した事務局の伊藤副会長のレポートです。
県央地区集会に参加させていただきました。亡くなられた会員様に黙祷を捧げました。清交会HPにアップされた深夜の満月の写真や歌会始めでのお題「夢」のうたをはじめ、参加された地区の会員様から免許更新、大学生、引継ぎ、健康診断、旅行の思い出等の話題で盛り上がりました。
そして、令和8年も「観桜会」を実施予定と伺いました。宜しくお願いします。
地区役員さんより当日の写真がたくさん届きました。元気に過ごすヒントがたくさんありそうです。ご紹介させていただきます。
短い秋と言われているけれど・・!?
会 長 浅羽 幸雄
短い秋が紅葉の楽しみを奪ってしまうのかと思えたこの11月でしたが、有難いことに自宅の周りの木々は予想を裏切って見事な色づきで目を楽しませてくれています。
ただ、私も歳のせいか身体の衰えは正直なもので一か月前の10月の終わりにインフルエンザの予防接種をしておいたので安心と思っていましたが、月末に38度6分の発熱があり、予定していた行動が十分にできず他の方にお願いしたことがありました。その日は幸いにも掛かりつけ医で検査が受けられ、結果的にインフルエンザ、新型コロナ共に陰性で、多分日頃の疲れが溜まっての風邪だろうとの医師の診断で風邪薬の処方を受けて、薬の服用中はアルコール禁止となり現在も継続中です。
インフルエンザの予防接種は「重症化を防ぐ」ための注射で、罹らないということではないと念を押されました。報道では、例年より一か月も早く大流行の様子だそうで警報があちこちで発令されていますので、皆様も十分にお気を付けください。
11月28日に県連退の「結成60周年記念式典・祝賀会」が開かれました。清交会からは、11名の参加者を見込んでいましたが、お一人体調不良で欠席され10名の参加となりましたが、総勢90名を超える方々で盛大にお祝いの会が開かれました。祝賀会の冒頭のアトラクションでは私が所属している男声合唱団に声がかかって、3曲ばかり合唱を披露しました。私は前日に発熱があったために極力迷惑をかけないように控えめに声を出していましたが、おおむね好評で安堵したところです。(来年2月11日のみなとみらいホール小ホールでの定期演奏会に無料招待しますということもチャッカリと宣伝させていただきました(笑い))
ところで、前回から話題にしていた清交会の重要な行事の「地区集会」が11月末までに後2地区を残して続々と開催されました。これまで実施されたところの様子がホームページにたくさん掲載されていますので、是非ともご覧いただきたいと思います。今後の予定ではそれぞれに12月と1月に開催予定ですので、私が出席する予定にしていますが、今年は地区集会の重なりも何日かあり、二人の副会長さんには14地区の半分を分担していただきました。地区役員の皆様方には色々ご準備から、大変にお世話になりまして有難うございました。各地区からいただいたご意見等は今後事務局会で共有して来年度以降に繋げていきたいと思います。
間もなく本格的な寒さもやってくるような情報が伝えられていますが、せめて去りゆく秋がゆっくりと過ぎていってくれることを願いながら、師走を迎えることにいたしましょう。
鎌倉。逗子地区集会が28日17時半から「鎌倉風凛」で開催されました。
地区役員さんの司会で最初から和気藹々、話が弾みます。
鎌倉という土地柄でしょうか。観光地鎌倉の話題も豊富です。地名は聞いたことがあってもそれが地元の話となるとまた違って聞こえます。
一人暮らしの知人に電話をした時、知人がしばらく声が出なかったので聞いたら、久しぶりに人と話をしたので声が出なかったという話に、改めてリアルに話すこと、リアルに会うことの大切さを確認しあいました。また、それぞれの勤務校のあるある七不思議に大笑い。それにしてもあの有名人の学校へ寄贈した制服は今どこにあるのでしょうか。
あっという間の午後9時、来年も元気に会いましょうと再会を約束して閉会となりました。どんな場合も家に帰るまでが遠足ではなく、清交会、全員無事に帰宅を確認しました。お疲れさまでした。
6月に旭・瀬谷地区集会が始まり、県央地区(12月6日)、港北・川崎地区(1月24日)の2か所を残すだけになりました。ご準備いただいた地区役員の皆さま、ご参加の会員の皆様、お疲れさまでした。
神奈川県連結成60周年記念祝賀会がホテル・ザ・ノット・ヨコハマで開催されました。祝賀会では清交会浅羽会長も在籍している横浜フィフティーズの素晴らしい合唱が祝賀会上に響きました。県連退60周年おめでとうございます。
参列した伊藤副会長から「神奈川県連合退職校長会結成60周年記念式典・祝賀会です 清交会から10名参加させていただきました。」とメッセージが届きました。
横須賀・三浦地区では、十一月二十三日に、横須賀中央「凛」において地区集会を開催いたしました。伊藤副会長を囲み、総勢十四名で、アットホームな雰囲気の中、盛り上がった時間を過ごすことが出来ました。
年齢を感じさせない元気さでいろいろな先生方のパワーあふれるお話を伺うことが出来ました。今年度は、ありがたいことに会員の半数以上の出席でした。企画して思ったことですが、勤務していた以前の話を聞けて大変に面白いと思いました。これは現職にはない気持ちの余裕でしょうか。
是非来年も元気なお姿で地区集会に参加されることを心より祈っております。(吉原地区役員より)
勤労感謝の日の今日、お元気な『横須賀・三浦地区』地区集会の集合写真が届きました。お飲み物も豊かだったようです。お話を伺って 新会員をはじめ、大先輩皆々様のつながりを再確認しました。地区役員の慰労も兼ねた二次会にも参加させていただき、次会の盛り上リを期して帰途につきました。(伊藤副会長より)
お元気な会員のお姿をご紹介します。12月13日のバス見学会もご参加よろしくお願いいたします。
11/22の鶴見・東京地区の地区集会の様子をご紹介します。
いい夫婦の日で初参加のご夫婦の姿がありました👍
常連になった名誉会員の顧問の参加もあり賑やかな会になりました🤩
『町田・相模原他地区の地区集会』の様子をご紹介します。
「今年も、本部から古川先生をお招きして、相模原、町田の地区集会を行いました。毎年のことながら顔を合わせ、近況報告等をすると話題が尽きることもなく、全員が終えると2時間30分が過ぎていました。そして皆勤賞で93歳になられた髙部先生のお姿にふれて、皆さんのあこがれとなりました。」 (地区役員)
『いくつになっても「知的な挑戦」が大切だと、80代の会員の方がドイツ語を始められたそうです。また、ご縁があって新しいパートナーと幸せな毎日を送っているという報告や、「大病を克服して参加できました」という嬉しい声もありました。今回も、学びの多い清交会ならではの地区集会でした。町田・相模原他地区は清交会の連絡網が電話・ファックス時代から、先行してメール配信等複数の連絡方法を試行していました。今回はガラケーからスマホになった方がいらっしゃって、参加者全員がlineで繋がりました。そっと、スマホを出される先輩の姿が素敵でした。
地元のサッカーチームFC町田ゼルビアがプロ、アマチュア日本一を決める「天皇杯決勝」、日本一になりました。
おめでとうございます。皆さんの地域への熱い思いが話題になる地区集会でもありました。皆さま、ありがとうございました、そして、お疲れさまでした。』(参加役員)
清交会活動活性化特別委員会が提案した「旧東海道を歩こう!」は、川崎を起点に、これまで鶴見宿、神奈川宿、保土ヶ谷宿と歩みを進め、そして本日は戸塚宿へ入りました。参加予定17名のうち15名の参加となりましたが、箱根駅伝でも難所とされる権太坂、そのさらに旧道側にある急坂の“権田坂”を登り、みなとみらいを見下ろす眺望を楽しみました。藤田農園では岩崎中学校元PTA会長のお子さんにご挨拶し、旅人たちは境木地蔵尊へ到着しました。
その後、権田坂の由来を確かめつつ品濃一里塚へ。道の両側に一里塚が残り、原形をとどめているのは県内ではここだけだそうです。江戸から九番目の一里塚を過ぎると、まもなく東戸塚駅周辺、本日の最終目的地ランチ会場へと続きます。
本日は東戸塚まで。次回はここからさらに上方へ進む予定です。参加者の皆さんの笑顔もぜひご紹介させてください。そして、もし可能でしたら、次回はどうぞご一緒に。一人では歩けない坂道も、仲間となら不思議と歩けてしまうものだと、今日は改めて実感しました。詳細画像はこちらからご覧いただけます。
国語科OB会より、『秋の集い』のご連絡がありました。清交会の地区集会も現在進行中ですが、実際にあって話をする効果をどこの地区からも聞きます。まさに教科で実践している国語科OBの皆様のご活動をご紹介させてください。
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1 国語科OB校長会
【窓風】「秋の集い」
参加者12名
2 会場
うお三昧きじま
戸塚西口店
3 時間12時30分より
14時30分
4 内容 議事
⓵ 会の主旨について
② 会の決まりについて
③ 会員名簿について
④ 役員選出
会長笠原実先生
事務局 下山和美
織茂篤史 井上能子
5 研修「詠進歌」について
講師 山田弘仁先生
6 会食及び懇親会
このような流れで2時間、
次回は令和7年4月を予定
横浜市連合退職校長会は横浜市立横浜商業高等学校講堂をお借りして「令和7年度 第48回 横浜市教育問題研究協議会」を開催しました。今年は高校が抜けて少し寂しい会となりました。小・中学校、特別支援学校、会員と4人のシンポジストによる発表、協議となりました。詳細は市連退の報告をお待ちください。
のばらの会の皆さま、今年は青少年育成センターで地元横浜出身の落語家『立川うぃん』さんをお招きして落語会を開催しました。古典落語から「転失気」と『転宅』で朝から大笑いでした。小坪小学校、日野南中学校、南高校と横浜市でお世話になりましたとご挨拶されていました。ご利用くださいとのことでした。
11月2日(日)のホームページアクセス数は、なんと一日で約120回。これまでの最高記録を更新しました。
地区集会を終えてお帰りになる際に、「スマホのアイコンからここが見られるのね! 楽しみにしています」と声をかけてくださった先輩がいらっしゃいました。
そのご期待に応えたくて、昨夜遅くまでかかって更新作業を行いました。たくさんのページをご覧いただき、本当にありがとうございます。
地区役員の皆さんのご尽力には、集会でお会いするたびに頭が下がります。メールや電話でこまめに連絡を取り合っておられる方、全員から一言ずつコメントを集めておられる方、それぞれにご苦労があることと思います。最近は詐欺などの影響で電話に出ないご家庭も増えており、連絡を取ることもなかなか大変です。どうぞ、ホームページなども積極的にご活用くださいませ。
こんな日が毎日続くと嬉しいですね。(C)
来年は教え子や同じ屋根の下で頑張った方々にも参加して欲しいですね!と参加者から感想を地区役員さんに伝えていらっしゃいました。中村さん、秦野さんの事前のご準備もあり、当日は大変お世話になり、楽しい時間を過ごさせていただきました。
港南公会堂会議室で、磯子・港南地区集会が開催されました。
地区役員の佐伯さんからは、次のような感想が寄せられました。
「今日は本当にありがとうございました。ホームページのことも丁寧に教えていただき、皆さん喜んでくださいました。
垣見さんの城趾巡りの投稿は、ホームページに掲載していただいて構いません。よろしくお願いいたします。」 (上の緑色をタップしてください。垣見さんの近況報告にリンクしています。)
参加予定だった方の中には、ご自身やご家族の事情で欠席された方もいらっしゃいましたが、地区在住の会員全員から一言ずつコメントを寄せていただき、それを一冊の冊子にまとめてありました。
「これで全員参加なのですよ」と穏やかに語られた言葉が、とても印象的でした。
緑区・都筑区・青葉区の三区合同地区集会が「希」で開催されました。
出席者は17名、うち初めての参加者が3名でした。
今回は叙勲を受けられた方が2名おられ、その話題で大いに盛り上がりました。
また、参加者の中には、かつて担任や初任の指導を受けた先生、同じ教科の仲間など、思い出話が尽きません。
さらに、近況報告では「老々介護です」「これから合唱団レビューを企画しています」「エージシュートを達成しました」など、まさに人生いろいろ。
それぞれの歩みの中で、「やはり、こうして顔を合わせて語り合えることが何より大切ですね」との声が多く聞かれました。
地区集会・懇親会の意義は、まさにその「リアルな交流」にあります。
「また参加します!」という明るい言葉で締めくくられ、約3時間にわたる充実したひとときとなりました。
神奈川・中西・南区合同地区集会が中華街:重慶茶寮にて実施されました。参加した会長からは懐かしいお顔をいっぱいでした。笑顔と女性の参加数の多さが印象的でした。
地区集会の様子がホームページに紹介されています‼
会 長 浅羽 幸雄
ようやく暑さが収まって秋の気配を暫くは感じていたいのに、急に寒い日が続い
たりして気温の変化に身体がついていかなくなってしまい、体力の衰えを感じざるを得ません。
さて、10月下旬から清交会の重要な行事である「地区集会」が続々と開催されています。これまでのところ例年より若干参加者が少ないようにも見えるのが残念ですが、それぞれの地区ではそれなりに盛り上がった会になっているようです。 私が参加できた地区では、お酒の効用か話が弾み、これまでお互いに知らなかったというそれぞれの出会いや、出身校の話では先輩後輩の間柄であったことが分かったりして更に話題が広がっていました。
また、他の地区では最近の清交会のホームページにも取り上げられた方が急遽参加されたこともあって、それに関する話題から他の投稿サイトにも関心を持たれるような雰囲気も広がりました。
10月に行われた3か所の地区集会の様子は、早速ホームページで紹介されていますので、その様子をご覧になって、これから開かれる会への参加を促すことになればいいなと思っています。
これまでに開催案内が全て出揃い、今年度は年越しで開催される地区が1か所になることが分かりましたが、11月の予定を見ると重なりが3日間になりましたので、二人の副会長には交代で出席してもらうことにしています。
私は、最近は最低でも週に一回はホームページを開いて見るようにしていますが、会員からの投稿も増え始めているようで、嬉しく思っています。今年の地区集会ではそのホームページの閲覧の仕方、活用の仕方などを再確認する場にもしたいと考えて、過日「ホームページ運営委員会」から地区役員の皆様へお願いのメールが回っていますので、集会の中で説明がなされるのではないかと思っています。これによってさらに活用が広がっていくことを期待しています。
これまでは、地区役員を通じての連絡網は訃報をお伝えするだけのような印象もありましたが、このように今は地区役員の方々へメールの一斉連絡を利用して様々な情報を紹介することも試みられていますので、是非とも皆様のご理解・ご協力をよろしくお願いいたします。
11月! 気象予報のように短い秋で終わってしまうのか? 心配していても仕方ないですね?! どんな形でもいいですから楽しめるだけ楽しみましょう!
活動活性化委員会のメンバーと事務局役員で11月15日の「旧東海道を歩こう」の下見をしてきました。保土ヶ谷駅9時半集合、旧東海道を歩きます。本陣跡、脇本陣跡、一里塚等歴史をたどりました。旧道で権田坂を上がり,境木地蔵尊で境木のもとになった木を見て、餅つき坂を下りて、今年はここまでです。短い距離ですが、権太坂は辛いですが頂上付近からの景色は最高でした。その後、昼食を食べて、午後1時過ぎ、終了しました。気持ちよい疲れと発見、是非ご参会ください。参加申し込みはこちらから。
○…鴨居中の校長を4年間務め、59歳で早期退職。不登校児のための学習の居場所を作った。「不登校の子どもたちにも学習したいという気持ちはある。遊んだり休んだりできる居場所は増えてきたが、学習を支援する場を作ってあげたくて」と思いを語る。学習についていけないことも不登校の原因の一つ。和み塾では各自のペースに合わせ、周囲の目を気にせず「つまづき」の原点に戻って学習できる。
○…菊名で生まれ育つ。父親は町内会長を歴任し、叔母は現在港北芸能協会の副会長を務めるなど、地域に密着した家系。菊名小、大綱中を出て翠嵐高に進む。家の中で百科事典を読むのを好み、活発な子の後ろに隠れるタイプだったが、中学で柔道を始めて「自信がついた」と笑う。高校では勉強にもイベントにも燃え、現在もOBが参加する「かながわ校歌祭」の実行委員に携わるなど、同級生らとの交流は深い。”山荘”と呼ぶ自宅に招いて、庭でバーベキューをすることも。 ○…「無類のビール好き」を公言し、家ではピザづくりや生ハムを仕込んで好きなビールを楽しむ日々。世界のビールを飲みに14カ国周ったという。「夏は韓国やカンボジアに行ったし、次はカナダに行く予定」。旅のメインは研修だ。世界の教育を研究し各国の先生と交流する。頼まれて講演することもある。海外に行くと「日本の教育の良いところ、足りないところがわかる」という。 ○…家庭での虐待や貧困など、不登校にはさまざまな「根っこ」がある。子どもたちが願う選択肢の一つになるよう、「自分のできることで還元していく」と力を込める。地域と連携し、他の地区にも取組みを広げていきたいと考える。役目は子どもたちの「孤立を生まない」ことだ。
28日、無事に3区合同地区集会が開催できましたと地区役員の小谷様からご連絡がありました。
「話題が尽きず、予定時間もオーバー。諸先輩の元気さに圧倒されました。」と戸塚地区役員 小谷孝道様から。どこの地区集会からも聞く言葉です。会員の皆様のご健勝は何よりの励みになります。
皆様のお元気なお顔をご覧くださいませ。リアルに会ってその空気感の中で話ができる、声を出すことは何よりの癒しになるそうです。ご参加、ありがとうございました。
保土ヶ谷区は当初参加を予定されていた方が体調変化だったり、他の急を要する用だったりで、参加数が減ってしまわれたようです。その分、中身の濃い内容は次の会長の感想から。
保土ケ谷区の地区集会は三人の会でしたが、有意義な会となり無事に終了いたしました。地区役員の小野寺さんと参加の横田さんが、同じ大学の出身だということが分かり盛り上がった会になりました。
やはり顔を合わせてゆっくり話さないとなかなか分からないことが多いなぁと実感しました👍
🌸金沢区地区集会が開催されました(10月25日)
10月25日(土)、金沢区地区集会が開催されました。
地区役員の皆さんの温かなご配慮のおかげで、終始和やかで楽しいひとときとなりました。
新会員の方が、なんと清交会・岩澤顧問の教え子と分かり、会場は一気に思い出話で盛り上がりました。
あの夏の暑さが嘘のように、急な冷え込みが身にしみる季節となりましたが、
年に一度のこの集まりを通じて、お互いの元気な姿を確かめ合うことができました。
事務局からは、最近クマの出没が話題になっている故郷・秋田から帰浜された伊藤副会長も参加され、
久しぶりの再会に笑顔があふれるひとときとなりました。
「1870年代頃に形成された中華街、日清戦争、関東大震災、日中戦争、いくつもの試練を乗り越えた160年、そして今日の中華街までの変遷を追い続けている」伊藤和泉様に「横浜中華街の歴史と今」と題してご講演をいただきました。たくさんの資料を提示していただきながらの、知っているようで不確かだったことが明らかになります。参加者からの感想をいくつかご紹介させてください。
「以前に数年前に講演 をお願いして実施できず、申し訳ない思いと、残念な思いでいました。今回講演をいただき、本当に良かったと思います。 横浜生まれ横浜育ちの私の全く知らない中華街の歴史や、変遷、今など、たくさんのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。」
カンナ 相澤陽子
横須賀線の線路沿いには
赤いカンナが
どこまでも続いている。
列車の轟音をものともせず
毎年約束を果たすように
赤いカンナが咲いている。
男が言った
あなたはカンナのようだ
わけを聞く間もなく
男は去った。
花弁の燃える匂いを振り払い
赤いカンナは
毅然と咲き続ける。
東京湾の無人島・猿島へ (そして軍港めぐりへ)
ようやく秋らしい気候になり、身体も動きやすくなってきました。お待たせしました。今年も恒例の「バス見学会」を実施します。
今回は、夏の暑さで固まった身体を解きほぐすように、アニメ『ワンピース』の冒険さながら――シニア世代の私たちが胸を高鳴らせて、東京湾唯一の無人島・猿島へ出航します。
緑に包まれたトンネル群や旧要塞跡を歩けば、歴史と自然が語りかけてくる“時の迷宮”のよう。童心を取り戻しながら、海風をいっぱいに吸い込みましょう。もちろん、歩きたくない方は桟橋そばのレストランで海を眺めながらのんびり釣り人を眺める時間を過ごしても構いません。
⚓ 続いて「横須賀軍港めぐり」へ
「軍港めぐり」は決して軍事を賛美するものではありません。知らないまま批判するより、知って正しく現状を見ることで、平和の意味を改めて感じることができる貴重な機会です。
海上保安庁・海上自衛隊・米海軍の艦船を間近に見ながら、技術と安全を支える人々の姿、港の活気、そして横須賀という街が持つ歴史と未来を体感しましょう。子どもの頃の夢、シニアの冒険心を満たす一日、ぜひご一緒ください。
実施日:12月13日(土)
集合:横浜駅東口(昨年と同じ)午前9時集合
費用:10,000円(バス・高速・猿島往復渡航費・軍港巡り乗船費ほか)
解散:横浜駅東口 16:30〜17:00予定
※横須賀方面の会員は、横須賀中央駅前集合・解散も可能です。
横浜駅東口集合 =(高速道路)― 横須賀中央駅前 ― 三笠公園(三笠桟橋) ― 猿島(島内探検)―(三笠桟橋)― ランチ(横須賀ポートマーケット) ― 汐入桟橋 ― 軍港めぐり ― 横須賀中央駅 ― 横浜駅東口解散
中秋の名月、関東は曇り空が多いようですが県内各地から月が届きました。横須賀市から、磯子区から、大和市から、港北区からもそれぞれの趣のある名月をおすそ分けいただきました。十五夜飾りもありがとうございます。
暑さ寒さも彼岸まで・・?! 地区集会にお邪魔します‼
会 長 浅羽 幸雄
昔から言われている諺に「暑さ寒さも彼岸まで」というのがありますが、不思議
なもので先日までのあの猛暑はどこへ行ったのか、赤とんぼが舞い始めた今日この頃です。
朝晩と昼間の気温差が激しく体調の維持管理が難しくなるほどの気候の変化ですが、長期予報では短い秋の後に直ぐに冬の寒さがやってくるとの報道もありました。
さて、清交会の重要な行事となっている「地区集会」が、10月の声を聞くところで開催案内が続々と届いています。(既に旭・瀬谷地区は6月に実施済みですが)
今年もいくつかの日で重なりが出てきていまして会長の私が全ての地区にお邪魔させていただくことは困難になっていますので、代わりに二人の副会長に代理で出席してもらうことにしています。また、10月、11月は市連退や県連退の行事も多く組まれていますので、事務局のメンバーも仕事をしながらの日程の調整に苦労しています。地区によっては参加者の減少に頭を悩ませているという話も聞きますが、定例の役員会と違って直に会員の皆様の声を聞けるチャンスと思っていますので、ホームページのこの記事をご覧になって参加者が増えればいいなと思います。
最近は、ホームページを開いて見ると、会員からの投稿も増え始めているようで、嬉しく思っています。これからの地区集会ではそのホームページの閲覧の仕方、活用の仕方などを再確認する場にもしたいと考えて、過日ホームページ運営委員会から地区役員の皆様へメールが回っています。これまでは、地区役員を通じての連絡網は訃報をお伝えするだけのような印象もありましたが、このように地区役員の方々へメールの一斉連絡を利用することも試みられていますので、ご理解・ご協力をよろしくお願いいたします。
このまま暑さが収まることを期待して、体調の変化にも気を配りながら秋の夜長を楽しみましょう!
横浜市の公立中学校で校長を務めていた齋藤浩司さんが、早期退職して始めたのは、不登校の子どものための「学習の居場所」でした。それが横浜市にある「菊名和み塾」で、現在、小中学生10名が在籍しています。 ◆「居場所」はあっても「学習の居場所」がない
◆仕事をしながら次のことを考えるのはイヤだった
齋藤さんが校長を辞めたのは2022年3月で、定年が1年後にせまった59歳のときでした。この時点で、菊名和み塾の構想があったわけではありません。 「学校外で何かやりたいとは思っていましたが、具体的なプランがあったわけではありません。大学院とか教職大学に行くとか、ゆっくり温泉にでも浸かりながら考えようかなと思っていました(笑)。ただ、仕事をしながら考えるのは中途半端でイヤだったので、スパッと辞めました」 仕事を始めたときの事務所にするためにワンルームのマンションを購入し、2023年4月に「一般社団法人とえはたえ」を設立します。この「とえはたえ」が運用しているのが、菊名和み塾です。 マンションを準備したときも、菊名和み塾の構想があったわけではありません。それが、どうして菊名和み塾のスタートにつながっていったのか、齋藤さんは次のように話します。 「マンションの部屋は毎日使うわけではありません。部屋を眺めていたところ、『4人か5人の子どもを受け入れるのにちょうどいい広さだな』と思い、『不登校支援のようなことができるのではないか』と考えました」 そこから前述のようなリサーチを始め、2023年5月に菊名和み塾をオープンするに至ったというわけです。実際に子どもたちがやってくるのは6月でしたが、生徒募集には元校長の肩書きが役立ったようです。 「校長時代の知り合いも多いので、区役所に説明に行ったら、『頑張ってください』と言われました。しかし、資金援助を受けられるわけではありません(笑)。学校も訪ねたし、地区の民生委員にも相談しました。そういう方々も校長時代からの顔見知りが多いので、協力には前向きでした」 そうしたつながりの中から、2人の子どもが菊名和み塾に入塾することになります。それも小学校の校長からの紹介だったそうです。 場所もあって子どもたちもやってきた。問題は、どういう「学習の居場所」にするかです。学校と同じような授業をしていたのでは、「居場所」にはなりません。(続きはこちらから横浜市の公立中学校で校長を務めていた齋藤浩司さんが、早期退職して始めたのは、不登校の子どものための「学習の居場所」でした。それが横浜市にある「菊名和み塾」で、現在、小中学生10名が在籍しています。
「不登校の子にとって必要なのは、まずは家から出て人と触れあい、リラックスできる場所だと考える人が多いんです」と、齋藤さんは語ります。 そうした、不登校の子どもが家の外で過ごせる場所である「居場所」は、あちこちにできています。菊名和み塾の設立を検討していた地域にも、同様の居場所はすでに存在していました。 「そういう居場所を見学したり、居場所づくりをしている人たちに話を聞いたりする中で知ったのが、『学習する場所がない』ということでした」 居場所は、不登校の子どもたちが共に過ごしたり遊んだりすることを主眼としており、そのための工夫はされているものの、学習する場所としての位置付けが弱いのです。算数の学習を望む子どもがいれば、部屋の片隅で大人が教えるといった状況でした。 そこで齋藤さんは、「それなら学習する場所として位置付けよう」と考えたのです。ただ、学習する場なら、いわゆる「学習塾」でもよかったはずです。菊名和み塾を始めようとする地域には学習塾がなかったのかと尋ねると、齋藤さんは笑いながら答えてくれました。 「いや、ありますよ。しかし、学習塾が始まるのは放課後の時間帯です。そういう時間に出かけていってたくさんの子たちといっしょに学習する気持ちもエネルギーも、不登校の子にはありません」 確かに、それができる状況であれば、そもそも不登校にはならないでしょう。しかし、そうした子どもたちにも学習したいという気持ちは存在します。その気持ちを支援する場としてこそ、菊名和み塾の存在価値があるのです。
齋藤さんが校長を辞めたのは2022年3月で、定年が1年後にせまった59歳のときでした。この時点で、菊名和み塾の構想があったわけではありません。 「学校外で何かやりたいとは思っていましたが、具体的なプランがあったわけではありません。大学院とか教職大学に行くとか、ゆっくり温泉にでも浸かりながら考えようかなと思っていました(笑)。ただ、仕事をしながら考えるのは中途半端でイヤだったので、スパッと辞めました」 仕事を始めたときの事務所にするためにワンルームのマンションを購入し、2023年4月に「一般社団法人とえはたえ」を設立します。この「とえはたえ」が運用しているのが、菊名和み塾です。 マンションを準備したときも、菊名和み塾の構想があったわけではありません。それが、どうして菊名和み塾のスタートにつながっていったのか、齋藤さんは次のように話します。 「マンションの部屋は毎日使うわけではありません。部屋を眺めていたところ、『4人か5人の子どもを受け入れるのにちょうどいい広さだな』と思い、『不登校支援のようなことができるのではないか』と考えました」 そこから前述のようなリサーチを始め、2023年5月に菊名和み塾をオープンするに至ったというわけです。実際に子どもたちがやってくるのは6月でしたが、生徒募集には元校長の肩書きが役立ったようです。 「校長時代の知り合いも多いので、区役所に説明に行ったら、『頑張ってください』と言われました。しかし、資金援助を受けられるわけではありません(笑)。学校も訪ねたし、地区の民生委員にも相談しました。そういう方々も校長時代からの顔見知りが多いので、協力には前向きでした」 そうしたつながりの中から、2人の子どもが菊名和み塾に入塾することになります。それも小学校の校長からの紹介だったそうです。
場所もあって子どもたちもやってきた。問題は、どういう「学習の居場所」にするかです。学校と同じような授業をしていたのでは、「居場所」にはなりません。
(続きはこちらからhttps://news.yahoo.co.jp/articles/3c0f3b23be1bbbe89eaa23ed59b4ecdfd8e17b71)
清交会の事業の中でも希望者の多い「バス見学会」。今年は、東京湾に残る唯一の自然の無人島・猿島を下見してまいりました。
猿島といってもサルはおらず、名前の由来は、日蓮上人が嵐に遭い道に迷った際、白い猿が案内したという伝説によるそうです。
船に乗り、海を渡る風を受けながら、無人島へ向かうワクワク感が高まっていきます。島に足を踏み入れると、まるで時が止まったかのような静寂が広がり、物陰から亡霊が現れそうな不思議な雰囲気に包まれました。緑濃い木々の間には、レンガ積みのトンネルや砲台跡など旧軍の施設が残されており、探検気分を味わえるのも魅力です。
その後、猿島周辺の軍港を巡り、寄港中の軍艦の説明や最新鋭艦の仕様について説明を受けました。迫力ある軍港の光景に触れつつ、二度と使用されない平和な時代が続くことを祈らずにはいられませんでした。
なお、猿島の地図はQRコードからご覧いただけます。
9月中は「横浜市民半額割」の影響でしょうか、多くの観光客が訪れており、その中には高齢の方々も多く見受けられました。
今年のバス見学会は 12月13日(土) に予定しています。ぜひご一緒しませんか。詳細は追ってご案内いたします。
(国語科OB校長会よりのお知らせです)
国語OB会員各位
ご清祥のことと拝察いたします。
「国語科OB校長会『窓風』【秋の集い】」のご案内をお届けいたします。
記
第2回 国語科OB校長会「窓風」「秋の集い」開催について(ご案内)
暑かった夏も朝夕の風に一段落という季節を迎えました。
さて、本会も第1回の会合以来半年を過ぎようとしております。
つきましては、下記により「秋の集い」を開催したいと思います。
ぜひ、多くの皆様の参加をお願いいたします。
出欠の有無は10月5日(日)までに下山までお願いいたします。
なお、欠席の場合には、近況等をお寄せいただければ助かります。
※連絡方法
①ライン
③ S M S 090-8778-7901(シヨートメール)
④電話・FAX 045-813-8559
記
1)日 時 令和7年10月26日(日)12時30分~14時30分
2)会 場 「うお三昧きじま戸塚駅前店」 (緑色の字をタップするとお店のHPへ)
住所 戸塚区戸塚町20-2戸塚西口ビル2階(JR・ブルーライン戸塚駅西口より徒歩3分)
電話 045-869-0343
3)会 費 ¥5,500(男)・¥5,000(女)
令和7年9月20日
係 下山和美
台風15号の雨雲が神奈川県に到達するころでしたが通過後の天気の回復が予報でありましたので予定通り第325回役員会を開催しました。主な議題として「結成65周年記念事業」の日程が提案されました。記念式典・祝賀会(11月18日水)、記念旅行(11月29~30日)、展覧会などが予定されています。また、特別委員会では「旧東海道を歩こう!保土ヶ谷宿~戸塚」が11が15日(土)へのご参加のお誘いがありました。規約検討委員会、ホームページ運営委員会からの報告がありました。
地区役員から昨今の詐欺電話等から連絡網の電話連絡が困難になっていることから「訃報をホームページ上に掲載できないか?」との問題提起があり共有させていただきました。準備が整い次第「お名前」(最終在籍校)ご逝去日、告別式等の日程等」を掲載できないかと考えています。ご意見等がありましたら下記ボタンよりお寄せ下さいませ。
夏の初めに
転んで、先日はまた二日続けて転んで?
喜寿を迎えて益々老化が気になってきた・・・?!
会 長 浅羽 幸雄
先日(8/28)、夕方に今年初めて「カナカナカナ・・・」という鳴き声を聞きまし
た。 猛暑続きでいつ終わりが来るのだろうかと心配していた今年の夏も、このヒグラシの鳴き声を聞いてようやく秋の兆しが見えてきたかと何故かホッとする心持になりました。
ところで、夏の初めと言っても今年は早くから夏日、真夏日が来てしまい、いつが夏の始まりやらということで、忘れてしまった初めに転んだ日は…⁉ バス停に向かって歩き出して忘れ物に気付き、戻ろうと振り向いて1歩,2歩と歩きだした時に平らなところのはずなのに前方に転んでしまい、その時はほとんど怪我もなく鞄に入れていたメガネが歪んだくらいで済みました。ところが、8月に入り喜寿の誕生日を迎える2週間ほど前に、孫と行った大涌谷で前を歩いていた孫にぶつかりそうになり、それを庇って前方に転倒。この時は両肘、両膝をかなり打って擦り傷が何ヶ所も出来、「救護室に行きますか?」と警備の人に声を掛けられる始末。消毒用のおしぼりを貰って自分で手当てができたが、情けない状態となりました。怪我の程度は自分で処理できるくらいだったので車の運転も出来て自宅に無事に戻れて一安心。
しかし、二度あることは三度あるというように、その翌日合唱団の練習があったので昼過ぎに日傘をさして出かけたところ、自宅から300mも歩かないうちに歩道の縁石に躓いて、日傘もろとも前のめりに転んでしまった。それほど焦って歩いていた訳ではないのに…?! 腕にしていた時計の鎖が衝撃でねじれてうまくはめられない状態になり、勿論日傘も壊れて使い物にならなくなってしまった。前日と同じようなところを打ってしまったので、練習参加は諦めて自宅に戻り急いで「練習を休みます」と連絡を入れ、自宅練習・静養に努めることになってしまった。(定期演奏会が9/27にあるのでのんびりとはしていられない??!)
今年は猛暑続きで、朝の散歩が減ってしまったので、足腰の鍛え方が疎かになってしまったのが原因か、それとも老化現象で注意力の低下が元になったか…⁉ それ以来、外歩きはもちろん、家の中でも以前より手すりに頼る歩き方になり、スピードよりも確実に一歩一歩を確かめながらの行動が日常になっています。
清交会も来年は結成65周年となり高齢者の仲間入り(?)です。
65年前のスタート時は、55歳定年(60歳定年は1998年から努力義務として定着)で退職後の余生を楽しく生きていこうと考えていたと思われますが、最近は「人生100年」と言われ60歳定年から徐々に定年年齢が引き上げられ、隔年で定年が65歳まで延びることになっていて、60歳を過ぎても働かざるを得ない状況が出て来ています。(健康寿命も延びているので当たり前と言えば当たり前ですが…⁉)
この会員の現状を見ても、加入者の年齢が少しずつ高くなる傾向で、清交会の行く末を考えざるを得ないことが分かります。数年前から規約検討委員会ではこれらを予想して様々な角度から検討を試みてきていますが、社会情勢が激しく変わる現状を改めて考えるとさらに難しい局面が想定されることに思い至り、まずはやれるところから、取り組んでいこうと考えています。今後会員の皆様方のご意見を伺うことになりますので、清交会の活動に関心を寄せていただけると有難いです。
タウンニュースの港南区・栄区版に清交会会員の鶴貝敬司様の「戦争は人を変える」が掲載されていますのでご紹介いたします。 (鶴貝様より「タウンニュース」投稿分の表現の違いについて次のような訂正・加筆をいただきました。) ※編集者 (タウンニュースサイトはこちらからhttps://www.townnews.co.jp/0112/2025/08/14/797153.htm 画像はタウンニュースから)
初 め に私 の 座 右 の 銘
作 家 の 渡 辺 淳 一 氏 の 「 公 園 通 り の 午 後 」 に 「 戦 争 体 験 を 語 り 継 ぐ こ と に 反 対は し な い 。 ~ 中 略 ~ 体 験 を 語 ろ う と す る 側 に 一 種 の 気 負 い や 過 去 を 懐 か し む気 配 を 感 じ る と 気 が 滅 入 る 。 ~ 中 略 ~ 時 に 知 ら ず に 、 大 げ さ に 言 っ て 自 分 で
も 驚 く こ と が あ る 」とある。
彼 ほ ど の 作 家 で 医 師 で も こ う 語 る の だ 。語 る 時 、 書 く 時 、 私 は 此 れ を 胆 に 銘 じ て い る 。
◎渡満から国民学校卒業まで
(国民学校は昭和22年3月31日で終了)
(タウンニュースサイトはこちらからhttps://www.townnews.co.jp/0112/2025/08/14/797153.htm 画像はタウンニュースから)
①蘇家屯神社に日本の戦闘機が翼を国旗掲揚竿に引っかけて墜落見に行くと、未だ警戒網が張られる前だった。機械部分以
外は全て木造!ベニヤ板にキャンバスを貼って日の丸が描かれていて驚いた!それ以前にも満鉄病院前の広場の松の根を
掘り起こす作業に駆り出されて居て、松根油が必要と言われて居たので、これで戦争に勝てるのかとの思いを強くした。
② 家事手伝いの中国人のおばあちゃんとおばさんに5月頃から「日本負ける。早く帰る事よろし」などと言われて居た。満鉄の父に選択肢は無かった。今思えば思い切って退職して帰国すればと思うが、若い人は戦地へ駆り出されて手が足りない状態であったのだろう。
③ 1945年8月15日 所謂「玉音放送」はよく聞き取れなかった。
④ ④蘇家屯は満鉄の機関区があって、積載軍事貨物が停留して居た。此の物資を、現地人と日本人が呉越同舟で持ち出し始めた!火事場の馬鹿力で女性も大荷物を平気で担ぎ出した。この時初めて兵隊と土官の食べ物の違うことを知った。間も無く現地人の警官の銃音で静まった。
⑤
⑤その日の夕刻、現地人の一行が、満鉄病院から片脚の無い日本人の傷病兵を一人日本人街へ連れて来た。口々に大声で何か叫んでいる。何事か察した母が巡る袖の下から垣間見ると、大声で担ぎ上げた手を一斉に放して道路に叩き落とした。声を上げて泣き叫ぶ彼を何度か叩き落とした後、煉瓦やコンクリートの破片を叩きつける。母に突き飛ばされるようにして窓際から遠ざけられた。
その後こっそりと来てくれたお手伝いのおばあちゃんから、彼は日頃病院で、現地使用人への罵声、暴力等我慢ならない対応があって、それが今回の原因だと知らされた。
その後、身構えて居たが我々に対しての暴力行為は無かった。しかし中庭に何人かの現地人の男性が入り込んで見回しては帰って行った。後で判った事だが、我々が引き揚げた後に入居する物件を探っていたのであった。
⑥二、三日は静かに過ぎたが、突然ソ連兵が「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して侵入してきた。玄関のカギを自動小銃で壊して強盗に入られた。知り合いの若い看護師を預かって居たので、かねて父親から言われて居たとおり、布団の下に隠してその上に我々兄弟姉妹五人が固まって座り込んで震えて居たので、隠しおおせたが、姉妹の着物やめぼしい物は全て持ち去られた。
学校の時計が時刻を告げると、銃で撃つし、奪った腕時計を手足に幾つも着けて止まると捨てる等、乱暴の限りを尽くして去って行った。去り際に彼等は、満鉄の施設から目ぼしい物は殆ど、例えば客車、貨車、工場の煙突まで当時はリベット止めであったので外して持ち去った。これには中国人も怒って居た、本来は我々中国のものである筈だと言うのである。
このため私達が引き揚げる時には、電柱やレールを運搬する所謂台車しか残っていなかった。
⑦この後、毛沢東と蒋介石の内乱が始まり、私たちの街も市街戦の場となった。四軒が一つのレンガ建ての建物であった。私たち一家は二階であったので、頼んで下の家に身を移し、窓際には畳を上げて弾除けにし、さらに布団にくるまって身を守った。小銃弾はピューンと、迫撃弾はシュルシュルと飛んでくる。同級生の父親はトイレで用足し中に、この迫撃砲の直撃を受けて亡くなった。一階のご主人はあくびをして手を挙げた時に掌に小銃の弾が当った。遠かったのか二重窓と畳二枚が幸いして軽症で済んだ。
⑧列車は日本兵を満載して北へと通過する。私たちの家は最も鉄路に近い位置にあった。此処蘇家屯には満鉄の機関区があっ
たので、線路は多数ある。ここで列車はスピードを緩める。夜になると脱走兵は此処を狙って飛び降りる。撃たれずに逃げ延び
た計十人が、私の家を頼って来た。帰国後訪ねて来たのは千葉県のお一人だけであったが何人帰国出来たのであろうか。
父親は飼っていた鶏を彼等に締めさせてご馳走してやったり、背広を着せて逃がしてやった。程なく我々の住居を引き渡ざ
るを得ない時期が来た。追われるように父親の知人を頼って郊外の油脂工場へ引っ越した。
引き渡す時に、私は同じ年の男の子に一応挨拶を受けた。台所や物置以外に確か四部屋あったと思うが、驚くことに其々の部屋に其々の家族が入居したのであった。
移住した油脂工場で石鹸を作り、路傍で売ることで生計の一助と為すのだが、此処で酷い目に合う。数人で来て左で値を聞く間に右で万引きをするのである。これは以前彼等がマクワ瓜を売る時に日本人の大人がしたことへのしっぺ返しなのであった。
⑨愈々引き揚げ、1946年10月頃だったと思う。ソ連との国境から引き揚げて来る同胞よりはずっと恵まれているが矢張り不安だ。客車はおろか貨車も無い。台車で移動だ。
男どもが、一人一個の許しを得たリュックサックを縁に並べて縄で固定する。ドラム缶を半分に切ったものを載せて厚板を二枚渡しトイレとする。用を足す時は大人が四人後ろ向きに毛布を持ちカバーする。雨が降ればそのままだ。
何度も通過待ちをさせられて葫蘆島の収容所に着いた。土間にアンペラ(トウモロコシや高粱等の茎を乾燥させて延ばして編んだもの)一枚が敷かれたのみの部屋へ入る。勿論皆雑魚寝。
(※ 編集者、画像は葫蘆島著作権フリー)
現在の地図と重ねるとこんな感じでしょうか。(※編集者)
⑩梯団の世話役が団員から指輪等を集めて近隣の農家から薩摩芋を購入し大釜で煮る。取り出し終るや否や黒い小さな細い腕が延びてまだ熱いお湯の中から芋の尻尾を奪い合う。ソ満国境近くからの孤児や母子家庭の子ども達だ。気の毒に思った私が分けてやろうとすると、「何人いると思って居るの!」と母親に窘められて切なかった。
⑪やっと乗った船中には武装解除された兵隊が数十人が居た。中に若い兵士が病気であるらしく「おかあさーん、おかあさーん」と叫んでいるがだんだん声が小さくなってこと切れた様子。仲間がシーツに包んで担架に載せて甲板へ担ぎ出し、敬礼して海中へ投じた。水葬は後にも先にもこの時以外見たことが無い。
⑫我々は佐世保港、ソ連側からの引揚げは舞鶴港へと決まって居た。佐世保港が近くなると、本土は緑が多かった。皆が寄り右舷が傾く。係員が乗船して来て DDT を頭から、胸から懐へと万遍無く吹き込む。皆咽ている。疫病観察の為1週間船に足止めされて、漸く宿舎に入る。土間に一枚のアンペラ(高粱や玉蜀黍の茎を乾燥させて編んだもの)だけの部屋。勿論大勢で雑魚寝だ。
新幹線のなかった時代、現在は佐世保、東京間8時間弱ですが、何日もかかったことでしょう。(※編集者)
⑬大人も幼児も一人頭千円を渡されてそれぞれの土地へ散らばる。私どもは父親の栃木県足利へ帰る予定で宿舎を出たが、父親は就職のことを考えたのか、横浜市磯子区滝頭の蕎麦屋を経営していた叔父の家の二階に転げ込んだ。一家八人もの人間を良くも引き受けてくれたものだ。その後一人増えて九人になった。父は横浜市の交通局へ入り滝頭の車庫勤務となり、夜勤専門で猛烈に働きだした。母は嘗ての「紺屋」の腕を生かして「洗い張り」を父親と共に内職し始めた。私は小学校6年生であったが二歳年下の妹と、朝日新聞の配達員として早朝働いて、稼ぎは全て母親に渡した。友人の紹介で、収入の多い本牧の米軍住宅の新聞(stars andstripes スターズ&ストライプス星条旗新聞)配達に変わった。(画像は洗い張りの様子・・鶴貝さん提供)
霙の降る或る朝配達中に、一軒のハウスの裏口が開いて日本人のメイドが手招きをしている。よくあることで何がしかの食べ物をくれることが多い。当時日本人の多くが餓えて居た。卑しいと思いながらも空腹に耐えかねて台所へ入ると、机上に牛乳が入ったコップが置いてある。メイドが顎をしゃくって飲めと促したのが気に入らなかったが、滅多に飲めない牛乳に負けてがぶりと飲み込んだ。それは冷たい牛乳であった。冷え切った体に冷たい牛乳は堪えた。コップの縁が歯に当たり、カチカチ音がする。
少し様子が変なので、後ろを振り返ると、次の間の扉が少し開いて眼が三段に分かれて笑って居るではないか。上はメイドで下は此処の子ども二人だ。頭に血が上った私はコップをテーブルに叩きつけると外へ飛び出した。霙と泪で頬を濡らしながら配達を終えて家に帰り、母親に口惜しさを一気に吐き出した。黙って聞いて居た母は暫くして「人にして欲しくないことは他人にするもんじゃないよ」としか言わなかった。物足りなさを感じたが、後刻、当時の親たちは偉いもんだと思うようになった。同時にその時母親を随分と悲しませてしまった自分を責めた。母はもうこの世の人ではなかった。
⑭中卒後に高校へ行く余裕がないことは判り切って居たので、当時GHQの命で三分割された三菱の「東日本重工業横浜造船所」養成工となり、企業内の「三菱造船工業専門学校」に入学し同時に当時4年制であった夜間の高校へ通った(企業内各種学校は大学の受験資格が無かった)が、視力半減の為と養成工はどんなに頑張っても技師への道が無いことを知らされて退職。知人の紹介で磯子区原町の「極東米軍横濱通信補給廠」の「ハウスボーイ」として蒲鉾型兵舎の兵士 12 人の世話をすることになった。一人月額千円で、工員当時より収入は多かった。学校の英語は役に立たなかった。「此れはペンです」なんて言ったら笑われるだけではないか。「ユーガラマッチ」が「お前マッチ持ってるか」と判るまでそれほど時間は掛からなかった。若いことはいいことだ。
ベッドメイキング、靴磨き,クリーニング店への往復、兵舎の清掃が主な仕事。実はそれ以後、旅行でホテルや旅館へ泊まる度にシーツの折り目が気になる。簡単な冗談が言えるようになると、それぞれの気質も理解出来て対応は楽になった。その頃或る中尉さんと親しくなり、私が夜間高校へ通って居る。その後は昼間の大学希望と知った彼から、英文タイプを習得すれば夜間の仕事があると聞かされて、中区の吉田中学校近くのタイピングスクールに3ケ月通い免状を持って希望を満たし、昼間の大学へ行けるようになった。職名は「クラークタイピスト」であった。21時~06時まで。昼間のカードポスティングの整理、発送指示の一端を当時日本ではまだ珍しかった電動タイプライターで担う夜間勤務であった。
⑮中学同窓生からは 3年ばかり遅れてのスタートである。(1954/04/20~1956/09/01)この期間はしっかり保存されて居て「厚生年金」支給期間として有効であることを退職後に知って感激した。
当時、近所の小学校4.5.6年生と中学校の1.2.3年生を週3回各1時ずつに分けて約50人ほどを教えて居たので、1日のスケジュールは日曜日(専ら寝だめ)を除いて満杯であった。収入はサラリーマンの平均給与よりは多かった。その代償は身体への負担として振り掛かった。当時を振り返ると私は随分酷い生活をして居た。6時から9時まで塾。9時出発、10時~午前6時まで夜勤(12時から13時までブレークタイム有)朝解放されると大学へ。2時限目か3 時限目の授業を空けて食事を摂り図書館で1時間半寝る。2年生になるともうーコマを開けて3時間を睡眠時間に充てた。帰宅して塾。睡眠時間は大学への往き1時間半で細切れの計3時間。2年時からは4時間半。帰りの1時間半はその日の3コマ授業の復習の時間。これが結果として良かった。試験勉強時間が無くても何とか単位が取れる結果に繋がったのだ。後半は授業料免除の恩恵も得た。
夜勤のブレークタイムは食事有そして絶好の会話時間。夜食の中身は当時滅多に口にできない分厚く大きな食パンに同じ大きさのチーズ、ベーコン、トマトを輪切りにして挟んで、牛乳やジュースで食し、コーヒーが付く。
然しこの生活の繰り返しで、体重は二十歳過ぎても50キロを超えることがなかった。重い時は61キロまでになったが、90歳を過ぎた頃から筋肉が減少して来て丁度当時の体重近くになった。
付録
昨年7月。私の中学校勤務の最初の学級担任の男子生徒から、卒寿(鳩寿きゅうじゅともいうそうだ)の祝いにと、3泊4日の「五島列島キリシタンの旅」をプレゼントされて驚いた。(卒寿は終わりの語感もあって避ける人も居るようだ)その生徒に何か特別の事をしてあげた記憶はない。 五島は行ったことが無かった。迷った挙句受けて全身で楽しんで来た。
9月には、やはり卒寿の祝いにと静岡県から私塾当時の女子中学生が施設まで来てくれて感激した。私の妹と仲良しであったが理由は何と、英語の時間に教えた“不規則動詞の暗記”であった。
これを我が子に教えた結果、子供たちの英語力は満点。特に男の子は成人して数か国語を話せるまでになり、活躍している。
「お兄さんのお蔭です!」と言う。当時私は「お兄さん」であった。
此れとは別に「希望が丘中学校の二期生のクラス」では有志が「米寿」、二年後の「卒寿」、更には「九十一歳の誕生日」まで引き続き祝ってくれたり、「平楽中学校の有志」中でも卒業以来便りを切らさない女生徒はコーヒーも切らさずに送ってくれる。ボランティア精神旺盛な「玉簾仲間」、「船旅仲間」、「カラオケ仲間」等多数の方々に祝って頂いた。 長生きはしんどいこともある。でも素敵なこともあるもんだ!
※鶴貝敬司さんのタウンニュース掲載記事のご紹介とご本人提供の原稿を掲載しました。ご感想等ありましたら次のボタンからお寄せください。鶴貝様にお渡しします。