タウンニュースの港南区・栄区版に清交会会員の鶴貝敬司様の「戦争は人を変える」が掲載されていますのでご紹介いたします。(鶴貝様より「タ 「タウンニュース」投稿分の表現の違いについて次のような訂正・加筆をいただきました。)※編集者が記入 (タウンニュースサイトはこちらからhttps://www.townnews.co.jp/0112/2025/08/14/797153.htm 画像はタウンニュースから)
初 め に私 の 座 右 の 銘
作 家 の 渡 辺 淳 一 氏 の 「 公 園 通 り の 午 後 」 に 「 戦 争 体 験 を 語 り 継 ぐ こ と に 反 対は し な い 。 ~ 中 略 ~ 体 験 を 語 ろ う と す る 側 に 一 種 の 気 負 い や 過 去 を 懐 か し む気 配 を 感 じ る と 気 が 滅 入 る 。 ~ 中 略 ~ 時 に 知 ら ず に 、 大 げ さ に 言 っ て 自 分 で
も 驚 く こ と が あ る 」とある。
彼 ほ ど の 作 家 で 医 師 で も こ う 語 る の だ 。語 る 時 、 書 く 時 、 私 は 此 れ を 胆 に 銘 じ て い る 。
◎渡満から国民学校卒業まで
(国民学校は昭和22年3月31日で終了)
①蘇家屯神社に日本の戦闘機が翼を国旗掲揚竿に引っかけて墜落見に行くと、未だ警戒網が張られる前だった。機械部分以
外は全て木造!ベニヤ板にキャンバスを貼って日の丸が描かれていて驚いた!それ以前にも満鉄病院前の広場の松の根を
掘り起こす作業に駆り出されて居て、松根油が必要と言われて居たので、これで戦争に勝てるのかとの思いを強くした。
② 家事手伝いの中国人のおばあちゃんとおばさんに5月頃から「日本負ける。早く帰る事よろし」などと言われて居た。満鉄の父に選択肢は無かった。今思えば思い切って退職して帰国すればと思うが、若い人は戦地へ駆り出されて手が足りない状態であったのだろう。
1 ③1945年8月15日 所謂「玉音放送」はよく聞き取れなかった。
④ ④蘇家屯は満鉄の機関区があって、積載軍事貨物が停留して居た。此の物資を、現地人と日本人が呉越同舟で持ち出し始めた!火事場の馬鹿力で女性も大荷物を平気で担ぎ出した。この時初めて兵隊と土官の食べ物の違うことを知った。間も無く現地人の警官の銃音で静まった。
⑤
⑤その日の夕刻、現地人の一行が、満鉄病院から片脚の無い日本人の傷病兵を一人日本人街へ連れて来た。口々に大声で何か叫んでいる。何事か察した母が巡る袖の下から垣間見ると、大声で担ぎ上げた手を一斉に放して道路に叩き落とした。声を上げて泣き叫ぶ彼を何度か叩き落とした後、煉瓦やコンクリートの破片を叩きつける。母に突き飛ばされるようにして窓際から遠ざけられた。
その後こっそりと来てくれたお手伝いのおばあちゃんから、彼は日頃病院で、現地使用人への罵声、暴力等我慢ならない対応があって、それが今回の原因だと知らされた。
その後、身構えて居たが我々に対しての暴力行為は無かった。しかし中庭に何人かの現地人の男性が入り込んで見回しては帰って行った。後で判った事だが、我々が引き揚げた後に入居する物件を探っていたのであった。
⑥二、三日は静かに過ぎたが、突然ソ連兵が「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して侵入してきた。玄関のカギを自動小銃で壊して強盗に入られた。知り合いの若い看護師を預かって居たので、かねて父親から言われて居たとおり、布団の下に隠してその上に我々兄弟姉妹五人が固まって座り込んで震えて居たので、隠しおおせたが、姉妹の着物やめぼしい物は全て持ち去られた。
学校の時計が時刻を告げると、銃で撃つし、奪った腕時計を手足に幾つも着けて止まると捨てる等、乱暴の限りを尽くして去って行った。去り際に彼等は、満鉄の施設から目ぼしい物は殆ど、例えば客車、貨車、工場の煙突まで当時はリベット止めであったので外して持ち去った。これには中国人も怒って居た、本来は我々中国のものである筈だと言うのである。
このため私達が引き揚げる時には、電柱やレールを運搬する所謂台車しか残っていなかった。
⑦この後、毛沢東と蒋介石の内乱が始まり、私たちの街も市街戦の場となった。四軒が一つのレンガ建ての建物であった。私たち一家は二階であったので、頼んで下の家に身を移し、窓際には畳を上げて弾除けにし、さらに布団にくるまって身を守った。小銃弾はピューンと、迫撃弾はシュルシュルと飛んでくる。同級生の父親はトイレで用足し中に、この迫撃砲の直撃を受けて亡くなった。一階のご主人はあくびをして手を挙げた時に掌に小銃の弾が当った。遠かったのか二重窓と畳二枚が幸いして軽症で済んだ。
⑧列車は日本兵を満載して北へと通過する。私たちの家は最も鉄路に近い位置にあった。此処蘇家屯には満鉄の機関区があっ
たので、線路は多数ある。ここで列車はスピードを緩める。夜になると脱走兵は此処を狙って飛び降りる。撃たれずに逃げ延び
た計十人が、私の家を頼って来た。帰国後訪ねて来たのは千葉県のお一人だけであったが何人帰国出来たのであろうか。
父親は飼っていた鶏を彼等に締めさせてご馳走してやったり、背広を着せて逃がしてやった。程なく我々の住居を引き渡ざ
るを得ない時期が来た。追われるように父親の知人を頼って郊外の油脂工場へ引っ越した。
引き渡す時に、私は同じ年の男の子に一応挨拶を受けた。台所や物置以外に確か四部屋あったと思うが、驚くことに其々の部屋に其々の家族が入居したのであった。
移住した油脂工場で石鹸を作り、路傍で売ることで生計の一助と為すのだが、此処で酷い目に合う。数人で来て左で値を聞く間に右で万引きをするのである。これは以前彼等がマクワ瓜を売る時に日本人の大人がしたことへのしっぺ返しなのであった。
⑨愈々引き揚げ、1946年10月頃だったと思う。ソ連との国境から引き揚げて来る同胞よりはずっと恵まれているが矢張り不安だ。客車はおろか貨車も無い。台車で移動だ。
男どもが、一人一個の許しを得たリュックサックを縁に並べて縄で固定する。ドラム缶を半分に切ったものを載せて厚板を二枚渡しトイレとする。用を足す時は大人が四人後ろ向きに毛布を持ちカバーする。雨が降ればそのままだ。
何度も通過待ちをさせられて葫蘆島の収容所に着いた。土間にアンペラ(トウモロコシや高粱等の茎を乾燥させて延ばして編んだもの)一枚が敷かれたのみの部屋へ入る。勿論皆雑魚寝。
(※ 編集者、画像は葫蘆島著作権フリー)
現在の地図と重ねるとこんな感じでしょうか。(※編集者)
⑩梯団の世話役が団員から指輪等を集めて近隣の農家から薩摩芋を購入し大釜で煮る。取り出し終るや否や黒い小さな細い腕が延びてまだ熱いお湯の中から芋の尻尾を奪い合う。ソ満国境近くからの孤児や母子家庭の子ども達だ。気の毒に思った私が分けてやろうとすると、「何人いると思って居るの!」と母親に窘められて切なかった。
⑪やっと乗った船中には武装解除された兵隊が数十人が居た。中に若い兵士が病気であるらしく「おかあさーん、おかあさーん」と叫んでいるがだんだん声が小さくなってこと切れた様子。仲間がシーツに包んで担架に載せて甲板へ担ぎ出し、敬礼して海中へ投じた。水葬は後にも先にもこの時以外見たことが無い。
⑫我々は佐世保港、ソ連側からの引揚げは舞鶴港へと決まって居た。佐世保港が近くなると、本土は緑が多かった。皆が寄り右舷が傾く。係員が乗船して来て DDT を頭から、胸から懐へと万遍無く吹き込む。皆咽ている。疫病観察の為1週間船に足止めされて、漸く宿舎に入る。土間に一枚のアンペラ(高粱や玉蜀黍の茎を乾燥させて編んだもの)だけの部屋。勿論大勢で雑魚寝だ。
新幹線のなかった時代、現在は佐世保、東京間8時間弱ですが、何日もかかったことでしょう。(※編集者)
⑬大人も幼児も一人頭千円を渡されてそれぞれの土地へ散らばる。私どもは父親の栃木県足利へ帰る予定で宿舎を出たが、父親は就職のことを考えたのか、横浜市磯子区滝頭の蕎麦屋を経営していた叔父の家の二階に転げ込んだ。一家八人もの人間を良くも引き受けてくれたものだ。その後一人増えて九人になった。父は横浜市の交通局へ入り滝頭の車庫勤務となり、夜勤専門で猛烈に働きだした。母は嘗ての「紺屋」の腕を生かして「洗い張り」を父親と共に内職し始めた。私は小学校6年生であったが二歳年下の妹と、朝日新聞の配達員として早朝働いて、稼ぎは全て母親に渡した。友人の紹介で、収入の多い本牧の米軍住宅の新聞(stars andstripes スターズ&ストライプス星条旗新聞)配達に変わった。(画像は洗い張りの様子・・鶴貝さん提供)
霙の降る或る朝配達中に、一軒のハウスの裏口が開いて日本人のメイドが手招きをしている。よくあることで何がしかの食べ物をくれることが多い。当時日本人の多くが餓えて居た。卑しいと思いながらも空腹に耐えかねて台所へ入ると、机上に牛乳が入ったコップが置いてある。メイドが顎をしゃくって飲めと促したのが気に入らなかったが、滅多に飲めない牛乳に負けてがぶりと飲み込んだ。それは冷たい牛乳であった。冷え切った体に冷たい牛乳は堪えた。コップの縁が歯に当たり、カチカチ音がする。
少し様子が変なので、後ろを振り返ると、次の間の扉が少し開いて眼が三段に分かれて笑って居るではないか。上はメイドで下は此処の子ども二人だ。頭に血が上った私はコップをテーブルに叩きつけると外へ飛び出した。霙と泪で頬を濡らしながら配達を終えて家に帰り、母親に口惜しさを一気に吐き出した。黙って聞いて居た母は暫くして「人にして欲しくないことは他人にするもんじゃないよ」としか言わなかった。物足りなさを感じたが、後刻、当時の親たちは偉いもんだと思うようになった。同時にその時母親を随分と悲しませてしまった自分を責めた。母はもうこの世の人ではなかった。
⑭中卒後に高校へ行く余裕がないことは判り切って居たので、当時GHQの命で三分割された三菱の「東日本重工業横浜造船所」養成工となり、企業内の「三菱造船工業専門学校」に入学し同時に当時4年制であった夜間の高校へ通った(企業内各種学校は大学の受験資格が無かった)が、視力半減の為と養成工はどんなに頑張っても技師への道が無いことを知らされて退職。知人の紹介で磯子区原町の「極東米軍横濱通信補給廠」の「ハウスボーイ」として蒲鉾型兵舎の兵士 12 人の世話をすることになった。一人月額千円で、工員当時より収入は多かった。学校の英語は役に立たなかった。「此れはペンです」なんて言ったら笑われるだけではないか。「ユーガラマッチ」が「お前マッチ持ってるか」と判るまでそれほど時間は掛からなかった。若いことはいいことだ。
ベッドメイキング、靴磨き,クリーニング店への往復、兵舎の清掃が主な仕事。実はそれ以後、旅行でホテルや旅館へ泊まる度にシーツの折り目が気になる。簡単な冗談が言えるようになると、それぞれの気質も理解出来て対応は楽になった。その頃或る中尉さんと親しくなり、私が夜間高校へ通って居る。その後は昼間の大学希望と知った彼から、英文タイプを習得すれば夜間の仕事があると聞かされて、中区の吉田中学校近くのタイピングスクールに3ケ月通い免状を持って希望を満たし、昼間の大学へ行けるようになった。職名は「クラークタイピスト」であった。21時~06時まで。昼間のカードポスティングの整理、発送指示の一端を当時日本ではまだ珍しかった電動タイプライターで担う夜間勤務であった。
⑮中学同窓生からは 3年ばかり遅れてのスタートである。(1954/04/20~1956/09/01)この期間はしっかり保存されて居て「厚生年金」支給期間として有効であることを退職後に知って感激した。
当時、近所の小学校4.5.6年生と中学校の1.2.3年生を週3回各1時ずつに分けて約50人ほどを教えて居たので、1日のスケジュールは日曜日(専ら寝だめ)を除いて満杯であった。収入はサラリーマンの平均給与よりは多かった。その代償は身体への負担として振り掛かった。当時を振り返ると私は随分酷い生活をして居た。6時から9時まで塾。9時出発、10時~午前6時まで夜勤(12時から13時までブレークタイム有)朝解放されると大学へ。2時限目か3 時限目の授業を空けて食事を摂り図書館で1時間半寝る。2年生になるともうーコマを開けて3時間を睡眠時間に充てた。帰宅して塾。睡眠時間は大学への往き1時間半で細切れの計3時間。2年時からは4時間半。帰りの1時間半はその日の3コマ授業の復習の時間。これが結果として良かった。試験勉強時間が無くても何とか単位が取れる結果に繋がったのだ。後半は授業料免除の恩恵も得た。
夜勤のブレークタイムは食事有そして絶好の会話時間。夜食の中身は当時滅多に口にできない分厚く大きな食パンに同じ大きさのチーズ、ベーコン、トマトを輪切りにして挟んで、牛乳やジュースで食し、コーヒーが付く。
然しこの生活の繰り返しで、体重は二十歳過ぎても50キロを超えることがなかった。重い時は61キロまでになったが、90歳を過ぎた頃から筋肉が減少して来て丁度当時の体重近くになった。
付録
昨年7月。私の中学校勤務の最初の学級担任の男子生徒から、卒寿(鳩寿きゅうじゅともいうそうだ)の祝いにと、3泊4日の「五島列島キリシタンの旅」をプレゼントされて驚いた。(卒寿は終わりの語感もあって避ける人も居るようだ)その生徒に何か特別の事をしてあげた記憶はない。 五島は行ったことが無かった。迷った挙句受けて全身で楽しんで来た。
9月には、やはり卒寿の祝いにと静岡県から私塾当時の女子中学生が施設まで来てくれて感激した。私の妹と仲良しであったが理由は何と、英語の時間に教えた“不規則動詞の暗記”であった。
これを我が子に教えた結果、子供たちの英語力は満点。特に男の子は成人して数か国語を話せるまでになり、活躍している。
「お兄さんのお蔭です!」と言う。当時私は「お兄さん」であった。
此れとは別に「希望が丘中学校の二期生のクラス」では有志が「米寿」、二年後の「卒寿」、更には「九十一歳の誕生日」まで引き続き祝ってくれたり、「平楽中学校の有志」中でも卒業以来便りを切らさない女生徒はコーヒーも切らさずに送ってくれる。ボランティア精神旺盛な「玉簾仲間」、「船旅仲間」、「カラオケ仲間」等多数の方々に祝って頂いた。 長生きはしんどいこともある。でも素敵なこともあるもんだ!
※鶴貝敬司さんのタウンニュース掲載記事のご紹介とご本人提供の原稿を掲載しました。ご感想等ありましたら次のボタンからお寄せください。鶴貝様にお渡しします。
タウンニュースの港南区・栄区版に清交会会員の鶴貝敬司様の「戦争は人を変える」が掲載されていますのでご紹介いたします。(鶴貝様より「タウンニュース」投稿分の表現の違いについて次のような訂正・加筆をいただきました。)
鶴貝さんより「私が記者に時系列で話をしなかったのも原因の一つであるのですが、明らかに編集の手違いもあり、気になりました箇所を訂正、加筆致しました。」
(タウンニュースサイトはこちらからhttps://www.townnews.co.jp/0112/2025/08/14/797153.htm 画像はタウンニュースから)
「敗戦の日、中国人が片足のない日本の傷病兵を何度も地面に叩きつけ、体じゅうにレンガをぶつけていた」――。
泉区在住の鶴貝敬司さん(91)は横須賀で生まれて3か月後、一家3人で満州奉天へと引っ越した。「当時は満州に行けば日本の3倍は稼げると言われていました」
3歳の時、父が南満州鉄道の吏員(技術員)となったことから蘇家屯(そかとん)へ。終戦間際の国民学校5年生の時には奉天(瀋陽)でB29の空襲があり、襲撃の爆弾の地響きを体で感じた。「近くの神社に日本の戦闘機が落ちたのを見に行ったんだけど、翼の部分がベニヤ板でね。子ども心ながらに『これじゃ勝てない』と思いました」と振り返る。
1945年8月15日、敗戦の日。満鉄病院から連れ出された日本の傷病兵が自宅前で暴行されているのを目撃した。
後に聞くと彼は戦時中、住民らに罵声、暴力行為をとっていたためというが「戦争は人を変えるんだと思いましたね」。
命がけで引き揚げ
敗戦後は満州にある資源の強奪を目論むソ連の先遣隊がなだれこんだ。「酷いものでしたよ。いきなり家にソ連兵があがりこんで強盗するんです」。ある時はソ連が連行していた日本兵が脱走し、自宅にやってきたため保護したこともあったという。
1年が経ったころ、本土に引き揚げることが決まった。引き揚げ船の出る葫芦(ころ)島の港まで1週間、柵もない台車に乗せられて一家8人で移動。道中、中国人の追い剝ぎに遭遇した人たちもいたが、弟と妹の手を強く握って守りきった。命からがら到着すると今度は賄賂の要求。「賄賂を渡さないと日本に帰れない」と聞いたことがあった。
船を待つ間、少ない食料のなか大釜でサツマイモを煮ていると、熱い鍋に手を入れてイモのしっぽをつかむ手があった。日本人の孤児たちである。「分けてあげようとしたら、母に『何人いると思ってるの!』と叱られてしまって。やりきれなかったですね」
戦後は教員として後世に
帰国後は伯父のいた磯子区で過ごした。中学校卒業後は東日本重工業内の三菱造船工業専門学校に進み養成工となった。しかし知り合いから、技師になる将来性が無いと聞かされ退職。今度は磯子区にあった米軍関係施設の「ハウスボーイ」として家事などをする職に就いた。そこで仲良くなった中尉から言われてタイピングスクールで学び、クラークタイピストとして夜間勤務に就いた。夜間勤務をこなしながら大学に進学。資格を取って教員となった。
現在まで自身の体験をさまざま新聞にも投書してきた。「戦争を知る人がいなくなれば、また戦争は起こる。少しでも多くの人に何が起きたのかを知ってもらえるよう今後も伝え続けたい」
8月16日 和光弘様から8月の絵手紙(イチジク)
山田弘仁様から「今日の月:今日の月🌗下弦半月2025/08/16/ 03:04(旧7月22日)[月齢22.0]
4月30日 今日の月三日月2025/04/30/18:59(旧4月3日)[月齢2.6]
4月20日(日)
イースターの飾り物:横浜イングリッシュガーデンにて。
今日の月2025/04/17/23:03(旧3月20日)[月齢19.1]
今日の月満月2025/03/14(旧2月15日)
20:49[月齢.14.5]
ワームムーン
3月満月2025/03/14(旧2月15日)
03:05す[月齢.13.7]
ワームムーン
今日の月2025/03/07(旧2月8日)
18:05 [月齢.7.3]
上弦
今日の月
2025/03/02(旧2月3日)18:34
[月齢.2.4]
三日月です。実際の空には月の傍に金星が見えます。
ホーム(一番最初のページ)から投稿された記事をこちらに保存しました。ご投稿ありがとうございました。
毎月、月の写真をご紹介していただいています。冬の空は都会でも星がよく見えます。特に惑星がよく見えています。
送信済み
港北区の篠原八幡宮では冬至の朝日が鳥居の中に上ってきます。少しずつずれていきますが年末にかけて鳥居の中に上る太陽を求めて地元の方でにぎわいます。
土星食は土星の前を月が通り過ぎていく現象です。今回は上限の月で陰になっている部分へ土星が隠れ、その後、明るい面へ出てきました。地球から見ていると明るい星が急に消えるように見えます。そしてもう一度ぴかりと出てきて土星食は終わります。写真を壱枚づつ見ると土星がはっきりしてよくわかります。
遠い土星と近くの月が見せてくれる宇宙のロマンの一つです。
夕方の西空に月と金星が見事でした。月の光っていない部分が丸く光って見えます。地球照が見事な一枚です。
市内からも山頂が白い富士山の季節になりました。23日の月齢21.3の見事な下弦の月です。
大先輩からの季節の絵手紙をご紹介します。毎回、力強い絵手紙に励まされています。
令和6年10がう24日、4時56分、月齢21.0
下弦の月を撮影されて送っていただきました。
空がきれいな季節になりました。
80000年に一度の太陽に近づく紫金山アトラス彗星が日没後の空に見えています。今しか見ることができない貴重な彗星です。横須賀市秋谷で撮影しました。
横浜市内では見事な夕焼けが見られました。
令和6年9月18日(水)中秋の名月
月々につき見る月は多かれどつき見る月はこの月の月と詠われた中秋の名月、真夜中の姿から夕方過ぎの月までデジカメで撮影されたそうです。ご提供いただきました。
れい9月11日(水)
上弦の月、月齢8.3
の月の写真が届きました。
西の空に一番星は金星が輝いています。日中は暑いですが空は秋になってきています。
90代の先輩会員から残暑お見舞いの絵手紙が届きました。力強いエネルギーと季節の変化を感じさせていただきました。ありがとうございます。
素敵な先輩たちから元気のお裾分けの投稿がありました。(8月1日)
暑中お見舞いのお裾分け。戸塚の先輩から暑中見舞いをいただきました。さすがに美術科、92歳の先生の筆遣いは見事です。旬の新鮮な地場野菜を食べて夏バテを防ごうととのことです。「絵手紙」皆様にお裾分けします。
7月28日の下弦の月(月齢21.8)の画像をいただきました。
日中は猛暑ですが明け方下弦の月を愛でていらっしゃる様子が思い浮かびます。お誕生日を迎えると90代ですと添えられていました。スマホで撮影された素晴らしい月、ITを便利に活用しながらご趣味に生かしていらっしゃるとのこと、お裾分けをありがとうございます。
県央地区の会員様から昨年の地区集会の様子を5月に「ホームページの開設を祝い、会員ページへ初投稿です。」のメッセージと共にご投稿いただいていました。ありがとうございました。
HP特別委員会の開催が2か月に一回のため、ご紹介が遅れご心配をお掛けしましたことをお詫びいたします。
HP更新等も少しづつ改善していきますのでご理解・ご支援をどうぞよろしくお願いいたします。
5月30日の新聞記事を地区役員へ送ってくださった会員の方がいらっしゃいます。それをご紹介させていただきました。月が替わりましたのでこちらへ保存させていただきました。
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”数十年に一度だけ咲く花”リュウゼツランが今年は話題です。港南区上永谷駅付近のリュウゼツランも今か今かと咲く時が待たれているようです。
増加する見物者だけでなく毎日のようにマスコミに報道され、日本一有名なリュウゼツランになりつつあるそうです。咲くのが楽しみですね。(港南区在住の会員から)